伊達家忠臣の鑑 |
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2つ揃え |
1.0% 攻撃の被ダメージ軽減 |
3つ揃え |
36.6% 矢弾命中で防御力減少効果付与 |
4つ揃え |
+8.1% 近接攻撃のダメージ |
5つ揃え |
+12.0% 強い攻撃の気力ダメージ |
6つ揃え |
64 近接攻撃で敵を倒すと自分と味方の体力を回復 |
伊達家忠臣の鑑 は仁王の 揃え効果(セットボーナス) です
装備概要
- 鎧の種類: 軽鎧
- 鎧の重さ: X.X
- 装備条件: 16 体 / 17 技
戦闘タイプ
組み合わせ
鎧シリーズ
小十郎の軽鎧 |
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頑強さ | ?? | 対土 | ?? |
対火 | ?? | 対毒 | ?? |
対水 | ?? | 対麻痺 | ?? |
対風 | ?? | 対常世 | ?? |
対雷 | ?? | 重さ | ?? |
必要「体」 | 16 | 必要「技」 | 17 |
小十郎の軽鎧シリーズ は仁王の 鎧 です。
小十郎の軽鎧(こじゅうろうのけいよろい)は、伊達家の重臣、片倉重長が所有したと伝わる当世具足。重長は、献策巧みに伊達政宗の参謀を務めた片倉小十郎(景綱)の子で、その父よりこの黒漆塗り雪ノ下(ゆきのした)胴具足一式を譲り受けた。
元服して間もなく関ヶ原の戦いが起こり、上杉景勝が会津(現在の福島県西部)で挙兵すると、上杉方の白石城(宮城県南部)の攻略に参加し、初陣を飾った。血気盛んな重長は重い兜をかぶるより視界を確保しやすい鉢巻だけでいることを好んだが、額の部分には鉄板が仕込まれており、最低限の防御力は備わっている。
入手方法
- 購入:有/無
- ドロップ:有/無
備考
構成部位
鎧シリーズ 兜 |
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対崩し | ?? | 対土 | ?? |
対火 | ?? | 対毒 | ?? |
対水 | ?? | 対麻痺 | ?? |
対風 | ?? | 対常世 | ?? |
対雷 | ?? | 重さ | ?? |
必要「体」 | ?? | 必要「武」 | ?? |
鎧シリーズ 胴 |
|||
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対崩し | ?? | 対土 | ?? |
対火 | ?? | 対毒 | ?? |
対水 | ?? | 対麻痺 | ?? |
対風 | ?? | 対常世 | ?? |
対雷 | ?? | 重さ | ?? |
必要「体」 | ?? | 必要「武」 | ?? |
鎧シリーズ 籠手 |
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対崩し | ?? | 対土 | ?? |
対火 | ?? | 対毒 | ?? |
対水 | ?? | 対麻痺 | ?? |
対風 | ?? | 対常世 | ?? |
対雷 | ?? | 重さ | ?? |
必要「体」 | ?? | 必要「武」 | ?? |
鎧シリーズ 膝甲 |
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対崩し | ?? | 対土 | ?? |
対火 | ?? | 対毒 | ?? |
対水 | ?? | 対麻痺 | ?? |
対風 | ?? | 対常世 | ?? |
対雷 | ?? | 重さ | ?? |
必要「体」 | ?? | 必要「武」 | ?? |
鎧シリーズ 脛当 |
|||
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対崩し | ?? | 対土 | ?? |
対火 | ?? | 対毒 | ?? |
対水 | ?? | 対麻痺 | ?? |
対風 | ?? | 対常世 | ?? |
対雷 | ?? | 重さ | ?? |
必要「体」 | ?? | 必要「武」 | ?? |
おまけ画像
うんちく
この項目はゲーム内容とは関係無く、仁王の鎧を日本史の文献から参考に記載したものです。
個人で調べた内容のため誤りがある可能性がありますが、趣味の項目としてお楽しみください。
- 片倉重長の父、片倉小十郎(景綱)は、伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。
一説によれば剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど智勇を兼ね備えた武将であったと伝えられている。また大変な笛の名手であったとも言われる。 - 平時には内政、戦時下においては謀略で、優れた献策により伊達政宗を支えた。伊達政宗も小十郎の献策は素直に受け入れることが多かったという。
- 妻が重長を懐妊した際には当時主君・政宗に未だ子がいなかったのを憚り、実子を殺害しようとしたが、政宗の説得により留まったと言われている。
- 景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。
- 景綱は、晩年は大層に肥満していた。
『伊達家世臣家譜』によれば慶長7年(1602年)政宗より、「年を取って太ったその体では重い鎧は身に合わないであろう」と軽い鎧を賜ったという。症状からの推定では、糖尿病を患っていたと考えられている。 - 死後、景綱の人徳を慕った家臣6名が殉死したといわれている。
- 景綱の姉、喜多は景綱と20ほども歳が離れており、彼女は幼少の伊達政宗の乳母を買って出ている。
政宗の母とも言える者が景綱の実の姉であり、景綱自身は政宗の剣術指南に始まり、謀略の多くを政宗に伝授している。
伊達政宗にとって景綱は、父のような存在でもあり、同時に兄、そして剣と戦の師匠であり、よき先輩であった。
そのような偉大な父を持つ重長は、仁王の本編に登場した時期には、大坂の陣の後、享年59歳にしてこの世を去る景綱の後釜となるべく功を早していたとされている。
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